負担は減るはずなのに
📖 前回の記事:親に買い物を任せてみることにした話
この記事は、上の話の続きです。
昨日、両親と生活費や買い物の話をした。
結果として、これまで私が担当していた買い物を、父と母が週に2回行うことになった。
起きた事実だけを見ると、それだけの話だ。
むしろ私の負担は減るはずである。
なのに、一晩たっても何となく気持ちが晴れなかった。
自分でも不思議だった。
買い物をしなくてよくなるのだから、本来なら楽になるはずなのに。
なぜこんなにモヤモヤするのだろう。
話の論点が変わっていた
改めて振り返ると、私が話したかったのは生活費のことだった。
きっかけは父が毎日飲む紙パック牛乳だった。
母から
「お父さんが飲む牛乳だから、お父さんに請求して」
と言われた。
さらに、
「お父さんは食費を払っていない」
という話になった。
そこで私は、
「それなら二人で同じ金額を出して、買い物用のお財布を作ったらどうだろう」
と提案した。
私としては、とても事務的な話だった。
誰が得をするかではなく、家計の流れを分かりやすくしたかっただけだ。
ところが話は別の方向へ進んだ。
父は、
「お母さんにも役割を持たせないとボケる」
と言い、
最終的には
「自分たちで買い物に行く」
という結論になった。
もちろん、それも一つの考え方だと思う。
ただ、一晩たって気づいた。
私は生活費の管理について話していたのに、いつの間にか認知症予防の話になっていた。
だから少し置いていかれたような感覚が残ったのかもしれない。
父と母は違う話をしていた
さらに考えてみると、父と母も違う話をしていたように思う。
母は以前から、
「お父さんは食費を払っていない」
という不満を持っていたようだ。
一方で父は、
「自分は税金や公共料金や家電を負担している」
と言った。
どちらが正しいのかは分からない。
ただ、二人とも
「自分はちゃんと負担している」
と思っていることだけは伝わってきた。
牛乳代の話だと思っていたけれど、実際には長年積み重なった夫婦のお金の価値観が顔を出した出来事だったのかもしれない。
「見ていた」のなら
父は今回の話し合いの中で、
「いつもしんどそうに買い物の片付けをしていた」
と何度か言った。
そうだろうと思う。
基本的には休みの日に買い物に言っていたが、勤務が続くと、不足品を買い足すため、仕事帰りに買い物をして帰ることもある。そうすると、ちょうど父が夕食を食べている時間だったりするのだ。
私は仕事カバンと荷物を抱えて帰宅し、着替えもせず冷蔵庫へしまい、日用品を片付ける。そのまま、夕食も取らず慌ただしく犬の散歩に出かける。そのあと、短時間で食事を取り、その後明日の夕食などを調理するのだ。
父はその様子を何度も見ていたはずだ。この流れは半年以上続いているのだから。
だから、その言葉を聞いても、
「見ていたのか」
とは思わなかった。
むしろ、
「見ていたんだよね」
と思った。
そして、その先に続いたのは、
「それでも自分の仕事ではないと思っていたんだよね」
という気持ちだった。
家事は誰かが勝手にやってくれるもの
考えてみると、これは買い物だけの話ではない。
父は湯船に浸かるのが好きだ。湯船に浸かることが健康につながると考えているフシすらある。
でも、お風呂掃除をしている姿は一度も見たことがない。
買い物もそうだ。
もし購入する物を一つずつ数えたら、父個人が必要とする物が、共同の物品(調味料や日用品、常備する野菜など)の次に多いはずだ。何かとルーチンの多いじいさんなのだ。
それでも、何を買うか考えたり、在庫を確認したり、買い物へ行ったりするのは別の誰かの仕事だった。
父にとって家事とは、「自分がするものではない」のだと思う。
それはたぶん、長い年月をかけて出来上がった価値観だ。
今さら変えようとは思わない
若い頃なら、
「少しは手伝ってよ」
と思ったかもしれない。
でも今は違う。
78歳を過ぎた人の価値観を変えることがどれだけ大変かも分かる。
そして、そのために使うエネルギーがどれだけ大きいかも分かる。
正直なところ、
今さら父を家事のできる人に育て直そうとは思わない。
その労力の方が、たぶん大変だ。
だから今回も、
父を変えようとして生活費の話をしたわけではない。
私はただ、家計の流れを整理したかっただけだった。
それでも少し気になる
ただ、今回の件で一つだけ面白い変化が起きた。
父自身が、
「買い物は自分たちでやる」
と言い出したことだ。
私は買い物の大変さを教えようとしたわけではない。
でも結果として、父は買い物の現場に足を踏み入れることになった。
これまで、
牛乳がなくなれば補充される。
スポンジが古くなれば新しくなる。
調味料が減れば補充される。
そんな状態が当たり前だった。
けれど本当は、その裏で誰かが考え、確認し、購入していた。
買い物というのは、単にお店へ行くことではない。
生活の中の小さな困りごとを見つけて、先回りして解決する作業でもある。
ただ一つ、気になる点がある。
「自分たちでやる」という言葉。
あれは多分、自分は運転手や軽いサポートをすればいいと思っている言葉だ。
「お母さんも前は、しょうたんじゃけぇ、出来るよ」
とも、言っていた。
確かに数年前までは、やってたよね。お母さん1人で何十年も。
でも、ここ数年はやってないんだよ。出来ないんだよ。知らないんだよね。
しばらく観察してみようと思う
私はもう、先回りして答えを出すつもりはない。
もちろん、少しは助け舟を出すことになると思うが、100%お膳立てするつもりはない。ある程度線引をする。
父がどこまで気づくのか。
気づいたことをどのように理解し、行動するのか。
買い物がうまくいくのか。
そうでないのか。
しばらくは静かに観察してみようと思う。
ただ、一晩考えてみて、モヤモヤの正体が少し見えてきた。
私が気がかりなのは、買い物の担当が変わったことではない。
今の母に、以前と同じような家事を求めても、難しいだろうということだ。
物忘れも増えてきた。
段取りも、以前のようにはいかない。
私はその変化を、この数年ずっと見てきた。
時々、一緒に買い物に行くこともあったが、それだけでかなり疲れてしまうのだ。
物を探す、人とぶつからずに歩く。以前は普通にできていたことも、今はやっとこさできているというところだ。
それでも、こちらが他のお客さんとぶつからないように声をかけたり、置き場を伝えたりしないと、ハラハラする。そんな現状だ。
だからこそ、
父が母の現状をどこまで理解することになるのか、が気になる。
父は、
「役割を持たせないとボケる」
と言った。
その気持ちも分かる。
でも、役割を持つことと、できないことを任せることは違う。
もし買い物が思うように進まなかった時、
母は困るだろうか。
父はいら立つだろうか。
二人が、今まで築いてきた関係性が、いい方向へ転がればいいと思う。
だから私は、しばらく黙って見ている。
二人が納得する形に落ち着けば良い。
また、私が買い物に行くでも良い。
いまの、このギリギリのバランスで成り立っている、三人での生活が、どうなっていくのか、見極めて、決断していければ良い。
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