家族の中に残る「見えない役割」について思うこと

仕事にまつわる気づき

要約

日常のささいな場面に潜む“見えない役割”や“気が利く人に偏る負担”。
家族でも職場でも、当たり前のように続くその構造に、ふと違和感を覚えるようになりました。
少しずつ、自分の心とキャパを大切にしながら、フェアな関係を選び取っていきたい——そんな気持ちの記録です。

朝からの、ふとしたモヤモヤ🌀

弟が帰省する日の朝、高齢の母からこう言われました。
「弟くんの部屋、エアコンつけといてあげて。」

弟は40代のおじさん(笑)。乳幼児を連れて帰ってくるわけでもなく、一人で帰省するだけ。
しかも帰ってきたと思ったら、すぐ外出してしまう。

こういう“さりげない気遣い”が、日常には本当にたくさんある。
でも、それって本当に必要な配慮なのかな?
私が同じ立場のとき、こんなふうに扱われたことってあったかな?
ふと、そんな疑問が浮かんでくる。


家庭に残る「女性が気を回す前提」という空気

ご飯を作るのは女性。
買い出しも女性。
細々とした家事も女性。

掃除、洗濯、食器洗い、シャンプーやハンドソープの補充。
料理を作った側だからと、遠慮して崩れたメイン料理を自分の皿へ。
大量に作ったものを数日かけて食べ切るのも、だいたい女性側。

「女性が細かいことに気づいて当たり前」
「それができる女性の方が“選ばれる”」

そんな空気の中で、私もそれを自然に受け入れてきた。
むしろ若い頃は、それが“正しい立ち位置”だと思っていた。
いや、思わされていたのかもしれない。笑


家族関係の中に潜むフェアじゃない構造

男女の役割だけじゃなく、家族の内部にもアンフェアな関係が潜んでいる。

たとえば、18歳の孫に頻繁に呼び出される75歳の母。
すでに運転が心配なお年頃なのに、

駅まで迎えに行き
→ コンビニ
→ 本屋
→ お金を渡し
→ 家まで送り届ける。

家まで徒歩15分。
一方、母は駐車場まで片道10分、往復20分。

どちらが本来サポートしてもらうべき立場なのだろう?
そんな疑問が頭をよぎるけれど、母本人は
「頼まれたら迎えに行ってやらんと」
と、当たり前のように言う。

優しさがあるのは素敵なこと。
でも、その優しさが“搾取される形”になってしまっている気がして、胸がざわつく。


医療現場にも根づく“お膳立て文化”

家庭だけでなく、医療の現場にも似たような構造が根強くある。

ドクターに対して
・紙カルテの記入ページを開いて渡す
・レントゲン画像をあらかじめ表示しておく
・バイタルを口頭で読み上げる
・次に必要そうな物品をそろえて置いておく

こうした“先回りの優しさ”が、当然のように求められる。

もちろん相手にとってはありがたい。
でも、それが“やってもらって当然”になると、こちらはしんどい。

こっちも忙しいのに、誰も「してもらっている」とは思わない。
医療現場だけじゃなく、一般企業の上司と部下でも同じような構図はあると思う。


タスクは雪だるまのように増えていく

さらに、一つの仕事を任されると、
それを成り立たせるための“見えない準備”が連鎖する。

「これをするには、先にあれをしておかないと」
「それをやるには、この期限までにこれを済ませておかないと」

そんなタスクの連続で、仕事は雪だるま式に増えていく。

気づけば、自分だけがとんでもない量を背負っていて、
周りはゆっくりできる時間があるのに、自分にはない。

誰も悪気はない。
ただ、“気が利く人にだけ仕事が集まる構造”が静かに存在している。


価値観のアップデートが追いつかない世界で

スマホもAIも日常の一部になった時代なのに、
家庭にも職場にも、昭和のころの“気を回す人が支える構造”がそのまま残っている。

それを完全に否定したいわけじゃない。
ただ、「女性だから」「下の立場だから」「サポート職だから」という理由で
自動的に“気遣いの供給源”にされてしまう世界には、もう違和感しかない。

最近ようやく、
「私も対等に扱われていい」
「私も全部に気を回さなくていい」
という当たり前の感覚が、自分の中に芽生えてきた。


そして、自分も少しずつ変わっていきたい

家族との関係も、職場の利用者さんとの関わりも、
一緒に働くメンバーや、上司・ドクターとの距離感も。
全部“さじ加減”がとても難しい。

これは必要な援助なのか?
それとも過剰な気遣いなのか?
自分のキャパの範囲で対応できるのか?
その行動は、相手と自分の双方にとってフェアで、
未来の幸せにつながるのか?

そんな問いを、これからは丁寧に扱っていきたい。

気づく力だけじゃなく、
「どう対応するかを選ぶ力」も少しずつ鍛えていきたいと思う。


おわりに

思いやりが行き来する、フェアで心地よい関係を築ける人たちと、これから出会っていきたい。
日常の些細なモヤモヤこそ、自分の価値観が静かに更新されていくサインなんだと思う。

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